妙見信仰の話。
昨日、自分が管理している会社のWEBサイトに「木間塚」さんという人が登録してきた。「きまつか」と読むらしいのだが、珍しい名字だと思い、早速検索してみた。
すると、宮城県遠田郡南郷町の木間字というところにある木間塚神社という神社がヒットした。
http://www.enako.org/index2.htm
「この神社に縁のある人なんだろうか?」などと思いつつ、由緒書を見ていたのだが、
「神明社はもと破軍星(北斗星)を祀り、妙見堂と称されていました。明治維新後になって神明社と改称したのです。鎮座は正親町天皇の世、天正19年に端を発します」
とあり、祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とある。古事記の最初に出てくる宇宙創造の神である。
恥ずかしながら、北斗七星信仰に関する事柄を一切知らなかった次第なので、「破軍星って何やねん?なんかカッケー。つか、妙見とは何ぞや?」と思い、色々調べてみたのだが、まあ出るわ出るわ・・・思わぬ深みにはまってしまったので、「木間塚」という名前に絡めつつ、解る範囲で書いていこうと思う。
「破軍星旗」という北斗七星を逆さにあしらった軍旗がある。
陰陽五行説の考え方では、この北斗七星を剣の形に見たてていた為、剣先の指す方向を不吉として忌んだとの事だが、その為、北斗七星全体を「七星剣(しちじょうけん)」と呼び、聖徳太子などもこの七星剣を所持していたという。
なお、中国ではこの北斗七星に向かって軍を進めると必ず破れ、これを背にすると必ず勝つという考え方があるが、どうやら、この考え方を作り出したのはあの諸葛亮らしい。確か横山光輝の「三国志」でも、北斗七星をあしらった軍旗が出て来ていた記憶があるが、恐らく戦の際に士気を高めるために適当に作った物だと思う。生ける仲達を走らす策士の考えそうな事だが、古来より民間においてそうした北斗七星信仰のようなものがあったからこそこのような事を考え付いたに違いない。そうしたバックボーンがあるからこその発想だったのだろう。
なお、「密教占星法」という書の第11章「妙見大菩薩」の第4節「古来信仰の一端」によると、推古天皇19年(611)百済聖明王第三王子である琳聖が肥後八代郡白木山に来て、北斗七星信仰である妙見信仰を伝えたのだという。陰陽五行説が伝わったのが5~6世紀とされ、七星剣を持っていたという聖徳太子は推古天皇の摂政だったから、若干時代がずれるとは言え、大体、この頃に中国~朝鮮半島経由で伝わった考え方なのだと思う。
北天に輝く北極星を要する北斗七星の存在は、古くから洋の東西を問わず強いインパクトを以って認識されており、方角を知る手立てが少ない往時、特に航海者達の間では知らぬ人の無い存在だった。だから、こうした考え方が起こることは容易に想像出来るし、また、スムーズに日本に定着したのも理解出来ようというものだ。
話を木間塚に戻す。
この北斗七星信仰は軍旗にあしらわれる程であるから、貴族から民間まで幅広く信仰された中で、特に武士層に篤く信仰された事が容易に想像出来る。それでは、この北斗七星を信仰する木間塚神社の元となった妙見堂を開いたのは誰なのだろうか。
先の木間塚神社の由緒書には「鎮座は正親町天皇の世、天正19年(1591年)に端を発し」とあるが、当時、この木間塚を治めていたのは伊達家の一門衆で重臣ある亘理元宗の家臣・坂本(坂元)俊久であった。
坂本俊久は亘理家が遠田郡涌谷に移封されるに伴い、木間塚の地に移って来たのだが、それがまさに天正19年(1591年)。という事は、俊久は木間塚移ってくるなり、この妙見堂を作ったと推察出来る。
では、俊久が妙見堂を作ったする根拠は何か?それは俊久の坂本氏が千葉氏の傍流だということに由来する。
千葉氏と言えば桓武平氏の諸流であり、相馬氏、椎名氏、大須賀氏、原氏、円城寺氏、粟飯原氏等数々の豪族の祖となった名門中の名門だが、源平時代、挙兵した源頼朝が伊豆の石橋山の戦いで破れ下総に逃れた際、2万騎を率いて駆けつけた千葉常胤が特に有名だ。
実は、この千葉氏が信仰していたのが北斗七星、すなわち妙見菩薩であった。家紋の「曜星紋」は北極星をあしらったものと言われるが、密教では尊星王という名で知られ、これについては後述する。千葉一族は移り住んだ各地に妙見堂を建てた為、全国にその跡を見ることが出来、木間塚の妙見堂もその一つと考えられるのだ。
なお、明治期の神仏分離の時、仏教も含め外国的要素を排そうという運動が起こった為、仏教の菩薩の名前が付いた妙見堂は全て改名を余儀なくされ、祭神も天之御中主神という事にされた。天之御中主神が北斗七星を象った神なのかどうかは神仏習合が複雑に進んでいると解らないのだが、いずれにせよ宇宙繋がりって事なのだろう。
なお、この千葉氏の末裔に北辰一刀流の開祖である千葉周作が居るが、この北辰とはまさに北斗七星の別名である。
ところで、妙見菩薩こと尊星王を祭る「尊星王星祭」という祭りが毎年2月に滋賀県大津市にある三井寺で行われる。
三井寺は別名園城寺といい、最澄の直弟子である智証大師こと円珍が中興の祖である。別院という扱いだが、延暦寺と並ぶ天台宗の総本山とされている。
延暦寺を建立したのは先に千葉氏の祖として登場した桓武天皇だが、延暦寺が建てられた目的は陰陽五行説の「方違え」という思想に由来している。
要するに、鬼門の方角に向かって進むと縁起が悪いので、そちらの方角を背にするという考えだ。先に、「北斗七星に向かって軍を進めると必ず破れ、これを背にすると必ず勝つ」という考え方の事を書いたが、これを見ると、どちらの考え方も源流が同じであることが伺える。というか、もしかしたら、古来より方違えのような思想が先にあって、それを諸葛亮がアレンジしたのかもしれない。
比叡山は平安京から見て鬼門である東北に位置するため、桓武天皇は北方守護の目的で延暦寺を建てた訳だが、北の空に燦然と輝く北斗七星を神格化した妙見菩薩には北天守護の意味もあったから、まさにうってつけの神だったのだろう。
と、格好良くまとめたかったのだが、さっきの「密教占星法」を見ると、「平安遷都に際し、妙見尊を京洛の四方に安置してその守護となす」とあるし、「霊符縁起」という書には「昔平安城北斗堂と号す。都の四方に妙見菩薩を安置」とあるから、妙見信仰は方角に関わらずあったのね。でも、メインの方角は飽くまでも北だったと思う。
いずれにせよ、陰陽五行説を強く意識していた桓武天皇の末裔である千葉氏が各地にお堂を建立するほど妙見菩薩を信仰していたというのは実に興味深い。
ただ、この延暦寺には妙見菩薩や尊星王自体を奉ずる祭りというのは存在しない。最澄の弟子の円珍が居た三井寺でのみ行われているのだが、それは天台宗に密教的要素が取り入れられたのが弟子の円珍の代になってからで、円珍が唐において師の法全より「尊星王法」を直接付与された影響が強い。
円珍は法全より灌頂を受け、「両部大教阿闍梨位灌頂法」という密教の奥旨を伝授されているが、ここからは自分の勝手な妄想となる。円珍が唐で法全について修行した際、朝廷内のみならず篤く信仰されている妙見菩薩の密教版があると知った時、さぞや驚いたのではないかと思う。しかも、「尊星王法」という修法まで存在するとなったら、それを受けない手は無い!と考えたのではないか?まあ、灌頂を受ける程の円珍であるからして、師の法全も快くこの「尊星王法」を譲ったものと思われる。
恐らく、それまでの妙見信仰というのは多分に迷信的な色合いが強く、密教のように学問的体系が施されてなかったのではないかと思う。それ故、円珍は勇んでこの「尊星王法」を持ち帰ったに違いない。それを誦む尊星王星祭自体はいつから始められたのか解らないが。。
なお、密教の世界において「尊星王法」が成立した経緯は不明だが、北斗七星信仰という民間信仰が雑密化し、それを救い上げ体系化したものなのではないだろうかと愚考してみた。
しかし、陰陽五行説に由来する思想が、妙見菩薩などという仏教風に解釈されてしまうのも、それだけ人々に信仰されたが故だろう。神道と仏教が融合した本地垂迹説なんてのが出てくるくらいだから、律令時代に役所が設けられたほど影響力のあった陰陽五行説と仏教が融合するのも想像に難くない。というか、この辺の思想はお互いに影響を受け合い様々な考え方が生まれている訳だから当たり前か。
木間塚の名前の由来を調べるつもりが、妙見信仰や密教という思わぬ方向に話が飛んでしまった。
結局、その木間塚さんが木間塚神社に縁のある人なのかは解らなかったが、なんかもうお腹いっぱいなので、この辺で。
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