三国志、いや、中国史上において最も有名な軍師である諸葛亮、字は孔明。
彼自身がとても有名なのであまり気に留めないが、実は「諸葛」という二文字姓はとても珍しい。
姓は「諸葛」、名は「亮」である。
呉には諸葛亮の実兄である諸葛瑾という人物が居り、魏にも従兄弟の諸葛誕という人物が居た。
諸葛誕は、「蜀の諸葛も呉の諸葛も優秀なのに、魏の諸葛はどうもダメだ」と常々揶揄されていたが、後年、彼が司馬昭に対して反乱起こした際、部下は「諸葛誕の為なら」と付いて行ったというから人望はあったようだ。なお、息子の諸葛靚は呉の武将として活躍している。
話が逸れた。
「諸葛」という姓についてである。
今もそうだが、中国の姓というのは一文字姓がメインで、二文字姓というと当時は「公孫」「夏侯」「淳于」「皇甫」「司馬」程度でそれ程多くはない。
「諸葛」は元々「葛」という一文字姓だった。
葛氏は山東省瑯邪郡の諸県というところに居た一族だったのだが、陽都県という所に移住した際、他に居た葛氏と区別するために、出身地である諸県の名を付け「諸葛」としたという。なお、諸葛亮も13歳まで陽都に住んでおり、その後、叔父の諸葛玄に連れられ荊州に赴いている。そして、かの地で水鏡先生こと司馬徽の門下に入り、龐統と共に伏竜・鳳雛と呼ばれ、大いに名声を高めるのだった。
以上は「しょかつ」の話。
これ以降は「もろくず」の話となる。
何とはなしに、日本には「諸葛」という名字があるのだろうかと思った。暇人特有の発想と言って良い。
そこでネットで調べてみたところ、「諸葛」でも「しょかつ」ではなく、「もろくず」と読む家があることが判った。
明治初期、長州藩出身の教育者で諸葛信澄という人物が居た。
修童場という塾の出身であるので、あの乃木希典と同門である。
文部省時代に官立師範学校(東京高等師範学校、現東京教育大学)の創立に関わり初代校長となった。「補正小学校教師必携」を著しアメリカ式の近代的な教育方法を全国に広めたため、近代教育史においては重要な人物として知られている。
信澄の諸葛家は長州藩御用絵師の家であるが、岡倉天心等と共に日本画の復興に努め近代日本画の父と言われた狩野芳崖も実はこの諸葛家の出である。芳崖の父・晴皐も諸葛家の出で同じく名門・狩野派の名を与えられているところから、諸葛家は全国でも突出した絵師の家柄だったに違いない。
面白いのは、諸葛信澄は幼い頃より武芸に優れ、福原和勝率いる報国隊の一員として戊辰戦争に従軍しているのだが、芳崖も往時は絵筆を捨て国事に奔走していたのだという。芳崖の父・狩野晴皐は刀剣を研ぐことにも妙を得ていたというし、1864年(元治元年)の四ヵ国連合艦隊との講話談判には長州藩の代表として高杉晋作・村田蔵六・通訳伊藤俊輔など使節団の絵図係(現在の写真班)として同行していたというから、この諸葛家には絵師の家でありながら武張った気風があったのかもしれない。
信澄は1849年、芳崖は1828年の生まれで、この辺りの血縁関係は勉強不足で不明なのだが、遠からず関連があったのではと勝手ながら思っている。
ところで、この諸葛家の由来なのだが、ネット上ではどうしても資料を発見することが出来なかった。残念。諸葛信澄と狩野芳崖の関連性についてもそうなのだが、この辺の資料が全く無いので、地元に問い合わせるなりしないといけないのかもしれない。
元来、長州藩では狩野、笹山の両家が御用絵師として召抱えられていたというが、その内、分家として諸葛、度会という家が現れ、合計四家が御用絵師の家とされたという。この諸葛という家が出現する際の詳細が判れば・・・と思うのだが。。。。
諸葛家はとして挙げられるのは、長州藩の御用絵師以外にもある。
それは、諸葛琴台という江戸期の儒学者(1748~1810)の家であるが、琴台についてはさらに資料が少なく、ネットで判るのは以下の事だけだ。
「那須郡下蛭田村(那須町)生まれ、儒学者。江戸にて漢学を学ぶ。1776年館林藩の藩儒として仕官したが、まもなく辞して郷里に帰った。その後上野輪王寺宮の侍読、1804年姫路藩の藩儒となる。『焚書収燼』『経学或門』など多くの著作を残した」
http://www.lib.pref.tochigi.jp/reference_ex/allr/tr085.htm
琴台が最初から諸葛という家の出なのか、後から養子にでも入ったのか等まるで判らないため、この諸葛家がどんな家だったのかはさっぱり判らないのだが、膨大な著作物があるという割に、あまり研究対象にされていないというのも何だか悲しい。
若水俊という人が「諸葛琴台伝-人間は一劇場」という研究所を著わしているし、「江戸時代 ひとつくり風土記」シリーズの9巻にも載っているので今度立ち読みでもしてみようと思う。
http://www.ruralnet.or.jp/fdk/index.html
「江戸時代 ひとつくり風土記」のシリーズは面白そうだから揃えたいんだが、全部で50冊もあると身構えてしまう。何か天下り法人が暇つぶしと税金の浪費のために適当に作った感が否めなくて・・・中身を精査してからにしよう。
また、地名はしばしば名字の起源になるが、岩手県の滝沢村という所に諸葛川という川が流れている。
ただ、この諸葛川の名前の由来ははっきりしている。
それは、前九年の役(1051~1062)の時、安倍貞任が大量のモミ殻を川にまいて討伐軍の大将だった源義家の軍勢の目をくらまし、多くの兵を水死させたところから、「モミくず川」と呼ばれ、やがて「もろくず川」と呼ばれるに至ったのだというものだ。
異国の名軍師とは凡そ関係が無さそうである。
しかし、諸葛家に関して、ネットで調べた限りではこの程度しか判らなかった。何とも口惜しい限りだ。
実際、中国の諸葛家と日本の諸葛家が関係があるのかどうかは全く解らないし、長州の諸葛家が孔明の末裔を自称しているなんて説もあるが、そもそも、御用絵師の家が軍師の末裔を称する必要があるのだろうか?
聖徳太子の腹心だった秦河勝で有名な渡来系技術集団・秦氏が秦の始皇帝の末裔だと自称していたというが、ならば、何故、始皇帝の姓である嬴氏を名乗らないのか?そこには「秦」ならアピールし易いのでは?という政治的判断が反映されているからだろう。だが、長州の諸葛家にはその必要性があまり感じられないのだ。
先ほど、武張った家風と適当に類推したが、そうした環境が諸葛亮の末裔を自称させたのか、もしくは幕末、風雲急の主役であった長州藩の中にあって国事に奔走していた諸葛家の信澄や狩野芳崖が自称したか他称されたみたいな事くらいはあっただろう。それが風聞として現在に伝わっているというのは考えられなくはないと思う。
いずれにせよ、諸葛家の事が判らなくて無念でならない。
ネットだけじゃなくて、今後ももっと掘り下げて調べてみよう。
なお、全くの偶然でしかないとは思うが、森鴎外が書いた「渋江抽斎」には諸葛信澄が、そして同じく「伊沢蘭軒」には諸葛琴台が登場しているのが何だか面白かった。
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