福を呼ぶ
講談社文庫から出ている吉村昭の「日本医家伝」が何処の本屋を探しても売っていないので、もう売ってないのかと思い色々調べていたら面白い事に気が付いた。
江戸期、医学の発展に貢献した医師は沢山居たけど、なんか福井県出身の人物がやけに多いという事だ。
「解体新書」で有名な小浜藩医の杉田玄白とその同僚の小杉玄適。そして、同じく小浜藩医で彼らの後輩にあたる中川淳庵。
また種痘の普及に尽くした福井藩の町医者・笠原良策。
同じく福井藩の藩医で安政の大獄で獄死した橋本左内。そして、その弟で帝国陸軍軍医総監、東京大学医科大学教授、初代日本赤十字病院院長などを務めた橋本綱常なんかが居る。
また種痘の普及に尽くした福井藩の町医者・笠原良策。
同じく福井藩の藩医で安政の大獄で獄死した橋本左内。そして、その弟で帝国陸軍軍医総監、東京大学医科大学教授、初代日本赤十字病院院長などを務めた橋本綱常なんかが居る。
何でなのかよく解らないけど、一つの契機として日本最初の人体解剖(腑分け)に立ち会ったのが小浜藩医の小杉玄適だったからというのがあるかもしれない。
古来より腑分けは儒教的倫理に反するタブーであり、中国の医学書にある五臓六腑というのも何の実証性も無いものであった。
ある中国の医者が罪人の腑分けをした所、古来より伝わる五臓六腑とはまるで違う構造をしていた。当然である。ところが、その医師は「こいつは罪人だから構造が違うのだろう。古来より伝わる五臓六腑説が間違っている筈が無い」と片付けてしまったのだそうだ。何とも観念的であり、今の中国や韓国も同じような気がしてならない。中国はわざとやってる節があるけど。
話が逸れたが、江戸期も中頃になってくると様々な分野で実証学的な流れが起り、例えば、儒教の世界では古義堂を開いた伊藤仁斎・東涯父子が実証主義的な見地から朱子学を見直したりしていた。
医学の世界では、観念的な中国医学に疑問を持った京都の山脇東洋が1754年に京都所司代の許可を得て日本初の腑分けを行い、その成果を「蔵志」としてまとめて、オランダ医学書の正しさを証明し、後の医学界に多大な影響を与えたのだった。
ある中国の医者が罪人の腑分けをした所、古来より伝わる五臓六腑とはまるで違う構造をしていた。当然である。ところが、その医師は「こいつは罪人だから構造が違うのだろう。古来より伝わる五臓六腑説が間違っている筈が無い」と片付けてしまったのだそうだ。何とも観念的であり、今の中国や韓国も同じような気がしてならない。中国はわざとやってる節があるけど。
話が逸れたが、江戸期も中頃になってくると様々な分野で実証学的な流れが起り、例えば、儒教の世界では古義堂を開いた伊藤仁斎・東涯父子が実証主義的な見地から朱子学を見直したりしていた。
医学の世界では、観念的な中国医学に疑問を持った京都の山脇東洋が1754年に京都所司代の許可を得て日本初の腑分けを行い、その成果を「蔵志」としてまとめて、オランダ医学書の正しさを証明し、後の医学界に多大な影響を与えたのだった。
実はこの時の京都所司代が小浜藩主の酒井忠用であり、その忠用に腑分けの許可を働きかけたのが、山脇東洋の門弟である小浜藩医の小杉玄適だった。
忠用は学問に対する理解が深かった事から、あえてタブーを破って腑分けを許可したのだった。
そして、この小杉玄適の影響を受けたのが同藩の杉田玄白と中川淳庵であり、彼等が九州は中津藩の藩医だった前野良沢と出会うことにより「解体新書」が誕生するのだった。
忠用は学問に対する理解が深かった事から、あえてタブーを破って腑分けを許可したのだった。
そして、この小杉玄適の影響を受けたのが同藩の杉田玄白と中川淳庵であり、彼等が九州は中津藩の藩医だった前野良沢と出会うことにより「解体新書」が誕生するのだった。
福井藩の藩主は松平家だった。
幕末期には、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城と共に「幕末の四賢候」と謳われた松平慶永(春嶽)という藩主を輩出しており、橋本左内や三岡八郎(後の由利公正)といった人物を登用して、西洋式の藩政改革を行ったりしたから、そうした雰囲気があったのかもしれない。
四賢候に入っていないが、彼等と交流のあった大名に佐賀藩主の鍋島直正(閑叟)という人物が居るが、彼も相当な蘭癖大名として知られていた。
実は先の種痘の技術をオランダより取り寄せさせたのがその鍋島直正だった。
シーボルトの弟子で佐賀藩医だった楢林宗建に出島の医師であったモーニケを通じてインドネシアから種痘の苗になる牛痘を取り寄せさせた。
当時、不治の病として猛威を振るっていた天然痘。
その天然痘の画期的治療法として何度も導入が試みられた種痘は当時の医師たちにとって夢のような治療法であり、早急の導入が求められていたが、天然痘に罹った牛の膿を人体に植え込み抗体を作る事によりそれ以降の天然痘を防ぐという方法が人々の恐怖を誘い、中々定着しなかった。(他にもインドネシアから取り寄せる際に牛痘が死んでしまうという難点もあった)
そこで、藩主の直正自らが自分の息子に種痘を行い、その効果を人々に知らしめたのだった。これにより庶民は安心して種痘を行ったという。
なお、この楢林宗建とシーボルトの鳴滝塾での同門で京都で開業していた日野鼎哉の弟子が笠原良策であった。
幕末期には、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城と共に「幕末の四賢候」と謳われた松平慶永(春嶽)という藩主を輩出しており、橋本左内や三岡八郎(後の由利公正)といった人物を登用して、西洋式の藩政改革を行ったりしたから、そうした雰囲気があったのかもしれない。
四賢候に入っていないが、彼等と交流のあった大名に佐賀藩主の鍋島直正(閑叟)という人物が居るが、彼も相当な蘭癖大名として知られていた。
実は先の種痘の技術をオランダより取り寄せさせたのがその鍋島直正だった。
シーボルトの弟子で佐賀藩医だった楢林宗建に出島の医師であったモーニケを通じてインドネシアから種痘の苗になる牛痘を取り寄せさせた。
当時、不治の病として猛威を振るっていた天然痘。
その天然痘の画期的治療法として何度も導入が試みられた種痘は当時の医師たちにとって夢のような治療法であり、早急の導入が求められていたが、天然痘に罹った牛の膿を人体に植え込み抗体を作る事によりそれ以降の天然痘を防ぐという方法が人々の恐怖を誘い、中々定着しなかった。(他にもインドネシアから取り寄せる際に牛痘が死んでしまうという難点もあった)
そこで、藩主の直正自らが自分の息子に種痘を行い、その効果を人々に知らしめたのだった。これにより庶民は安心して種痘を行ったという。
なお、この楢林宗建とシーボルトの鳴滝塾での同門で京都で開業していた日野鼎哉の弟子が笠原良策であった。
笠原良策は私財を投げ打ち藩内に種痘所を作る運動を起こすが、佐賀藩の場合と同じく人々が恐れをなしたり、また、種痘の有用性に自分達の失墜を恐れた保守的な漢方医達の妨害に遭ったりと、挫折の連続だった。しかし、ここで良策を救ったのが開明的な思想を持った藩主の松平慶永だった。
今の福井県の中にはこの小浜藩と福井藩の他に鯖江、丸岡、敦賀なんて藩があって、別にこの辺の藩から有名な人が出た訳ではないから、福井県に何か特別なものがあった訳ではないだろうし、たまたまなんだと思うのだが、なんかあるのかな?と妄想してしまう。
越前や若狭と言えば、西廻り航路が発見される前の江戸初期以前は京都~大阪へ北陸の諸物産を運ぶ北国街道が通っている物流の主幹とも言える土地だった。また、西廻り航路が発見されて以降も沿岸地がリアス式になっている若狭なんかは北前船の寄港地として小浜港があり、越前にも三国港という寄港地を擁する等、有史以前から人や物の往来に事欠かない土地柄だった。司馬遼太郎風思考法になるけど、やっぱ、こういう土地ってのは、実証的な観点から物事を合理的に捉えようという気風が旺盛なのだと思う。
もう一つはこれまで見て来たように上に立つ藩主の影響だろう。
それまでに無い価値観を起こそうとする場合、必ずそれを理解してくれる保護者の存在というのが欠かせない。上記した大名以外では、前野良沢を庇護し続けた中津藩主の奥平昌鹿、異形の天才・佐久間象山を見出した真田幸貫なんかもそうだろう。
逆に、高野長英なんかは凄まじい才能を持ちながらも庇護者に恵まれなかったために非業の死を遂げた。伊達宗城が庇ってたりもしてたけど、所詮は他藩って所か。。。長英は東北・水沢藩の出で、祖父が藩主・留守家の侍医だった。
福井県はそうした地政と人に恵まれた土地だった所から、こうした人々が輩出されたんだと思う。つーか、福井県なんて、今は実に目立たない県だけど、こうして見ると実に重要な土地だったんだよね。まあ、滋賀県っていうとパッとしないけど、近江って言うと、「おお!」ってなるのと同じかね。
なお、オランダ語をやっている学者にやたら医者が多いのは、当時、先進的といわれた蘭学を摂取するには医学を媒介とする他無かったのだった。というのは、やっぱり基本的に蘭学というのはタブーだったからだが、人の生き死にに関わってくるとバテレンがどうのとかは言えなくなるので、己が地位を保とうとする漢方医達の嫌がらせに遭いつつも、江戸城内なんかにも蘭方医達が居たりしたのだった。
そんなことを考えてみた。
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